ABOUT JAPAN MOD
message to a MOD scene of the world to JAPAN MOD scene from TOKYO MOD SCENE
『 東京、この街の価値観も多種多様し過ぎて飽和状態だ。しかし、オレたちはただ一つの事だけを信じ、拠り所にこの街で変わらずクリーンな生活を過ごしている。』
MOD-ISM >> an aphorism for clean living under difficult circumstances by Peter Meaden
オレたちは、何一つ諦めることなく、ここ東京から、全国へ、そして全世界のMODシーンへ最高のアイディアと出来事を発信し続ける!!
しばらくこの街、東京にはエキサイティングな出来事なんて何もなかった。しかし、1977年、僕らは目の当たりにすることになる、それは彼の地LONDONから贈られて来た。
『IN THE BEGINNING』
1977〜8年、ロンドンPUNKシーンの盛り上がりやSex Pistolsが音楽雑誌に紹介され始めたころ、PUNKバンドの一つとしてThe Jamもこの国に紹介された、まだミュージック・ライフや音楽専科が音楽雑誌のメインストリームだった頃だ。
早くもパーカーやメランディのシャツをロンドンから輸入するPUNKショップもあったがほんの一握りの敏感な子供たちにしかMODSの事は知られていなかった。
やはりこの街にMODSを伝えたのは79年の冬に公開された「さらば青春の光(Quadrophenia)」だろう。どれだけの人が劇場へ足を運んだのかはわからないが、大盛況というわけにはいかなかったようだ。しかし、そんな大人たちの財布の中味とは関係なしにあの映画を見たことで何かを感じ、その事に取り憑かれた子供たちが何人もいたことは事実だ。
マス・メディアは映画公開の翌月には早くもいつもと同じようにロンドンのニュー・モッズ(Mod Revival)を取り上げた。しかし、LONDONでのリバイバルとは違いこの街ではほとんど始めて紙面で紹介されるMODSカルチャーはあまりにチープな内容でいい加減なもので、そこからブームが起きる程のものではなかった。
しかし、PUNKシーンが作り出した俺たちにだって何か出来るはずだと言う、当時のロンドンの音楽やストリート・シーンの持つ空気は伝わってきていて、80年2月にはモッジンが東京にも生まれる、そのモッジン「READY STEADY GO!」の巻頭で語られているのはファッションMODSへの批判とマス・メディアへの不満だったのだ、これは「俺たちのユース・カルチャーは俺たち自身で作り上げてやる」といった意思表明でもあった、この街でも殆どのユース・カルチャーがマス・メディアにっよってなぶり殺しにされてきた現実があったし、PUNKシーンも例外ではなかったと感じていたからだ。
MODSシーンはマス・メディアを避けながらそのシーンを膨らませて行ったからこそ、アンダー・グラウンドかもしれないが一過性のファッションやカルチャーではない一つのシーンとして成長していく、何度かのマス・メディアの気紛れなブームによって下らない物にされることもなく。
『The Jam』
1980年にThe Jamが初来日を果たす。東京の初日になる中野サンプラザにはまだ昼過ぎだというのにパーカーやスーツ姿のMODSやポークパイ・ハットを被ったRude Boysたちが何人も集まっていた、そんなぼくらの前に彼らは雑誌やレコード・ジャケットで見ていたのと同じにクールなスーツ姿でステージに現われた。もちろんぼくたちの気分は絶頂に達していた、その時信じられない事が起こったのだ、会場にいた人々は当り前のようにステージ前まで詰めかけ自分の席ではなく前の人の肩につかまり汗だくになって一時間半のステージを楽しんだのだ。ホールコンサートでは絶対に考えれれない、こんな事が実現できたのは同じ時期に来日していたTHE SPECIALSが会場の警備に不満を持ち中野サンプラザの公演をディスコ(カーニバルハウス)に変更した事も理由にあったのだろう、でもみんなをつき動かした一番の理由はこの国のシステムにうんざりしていたし、古くさいロック・スターと観衆という図式をアーティストもぼくらももう信じていなかったからだ。ステージ上の彼らはぼくらと価値観を共有する代弁者であって決してヒーローではなかったのだから。そして、このThe JamとTHE SPECIALSの来日の出来事は自分たちの手で自分たちのシーンを作る一歩となった。
『MODS MAYDAY』
1981年、The Jamが2度目の来日を果たしたその5月にMODS MAYDAY ‘81が吉祥寺のライヴ・ハウスで行われた。これは言うまでもなくロンドンで行われたMODS MAYDAY ‘79にインスパイアされて行われたMODSバンドのイベントだった。東京にもまだ今ほどはライヴ・ハウスもなかった頃のこと、そこにはThe JamやTHE WHO、SMALL FACESに影響を受けたビート・バンドが出演、MODSやMODSファンが集まった。これが東京MODSシーンの始まりだった。
この時点ではまだ、殆どのMODたちはいろいろな街で数人の小さなグループを作っていただけで、MODSバンドもそれほど活動はしてなく、定期的にギグをしていたのはTHE SAMROCK位だった。だから、ぼくらは殆どの時間を街角や「さらば青春の光」を上映している映画館で過ごしていて、そんな場所でぼくらは声を掛け合い、その頃のみんなの興味の大部分を占めていたレコード・ショップや古着屋などの情報を交換し、スモール・サークルを作りはじめる。しばらくするとスクーターも何台か映画館の前やみんなが集まるコーヒー・ショップの前に並びはじめ、ぼくらの小さなマイ・ワールドについて意見を交した。そんな中でいくつかのMODバンドも誕生し、82年のMODS MAYDAYの企画を始める、すこしずつだが確実にシーンになりつつあるその中にいて、ぼくらはこのMODSシーンがこの街の価値観や状況を本気で変えられると信じていた、その時ぼくらが暮らしていたこの街よりも数段ましな街になると。
MODS MAYDAY ‘82には当時のシーンで中心的役割をしていたTHE FACEや若干15歳のメンバーからなるBLACK ARTS、後にHIGH STYLEを結成する真島政則とLONDON TIMESのギター柳川ただしが参加するTHE BROOKS、それと黒田マナブが参加していたTHE STEPH 、THE ADDRESS、そして、ゲストに78年頃から活動をしていた女性コーラス・グループ、THE SCOOTERS。そう、あの「東京ディスコ・ナイト」がリバイバル・ヒットした彼女たちがゲスト出演し新宿のアシベ会館で行われた。満員状態の会場はMODたちで賑わっていたし、会場の外にも数台スクーターが並んでいた。ぼくらはその夜をおおいに楽しんだのだ。
MODS MAYDAYの直後その年の6月にThe Jamはワールド・ツアー「Transglobal Express」で日本に来日、まさかこの来日が最後になるとは誰も思っていなかった。次の来日の時にはぼくらのシーンはもっと大きくなっていてシーンのグループが絶対にオープニング・アクトを勤められると確信していた、そんな矢先の出来事だった。1982年の10月、ポール・ウェラーはThe Jamの解散表明をする。
『新宿JAM』
80年代にNEW WAVE、PUNK、MODSのグループたちが多く出演することで、東京アンダー・グラウンド・シーンを支えてきたライブ・ハウス「新宿JAM」。毎週そこで行われていた「EMOTIONAL MARKET」には、まだインディーズ・ブームが起こる前のアレルギーや有頂天、ギズムなどが出演していた。その新宿JAMに始めてMODSシーンのグループが集まったのは81年の大晦日の「10 HOURS DANCE」だった、オールナイトで行われたそのパーティーにはTHE BROOKS、THE STEPH、BLACK ARTS、THE FACEらが出演、百人ほどのオーディエンスを集めた。そんな大晦日のMODSパーティーは今でも新宿JAMのイベントとして続いている。
新宿JAMがMODSシーンの中心として語られるのは「MARCH OF THE MODS」が今でも新宿JAMで隔月(具数月最終土曜日)オープンしているからだろう。
このMARCH OF THE MODSは83年の10月に新宿LOFTからスタートする、出演していたのは黒田マナブが新しくスタートしたPage Three、80年代後半バンド・ブームの波に乗ってライフ・サイズからメジャー・デビューしたLONDON TIMES、THE BROOKS、BLACK ARTSが名前を改めたTHE STANDARDSも出演予定だったがドラマーの不都合でキャンセル、その代わりに出演したのが今ザ・クロマニヨンズでギターをプレイするマーシー、BRICKSTONEの篠原太郎と大槻ヒコの参加していたマージー・ビート・グループ、THE BREAKERSだった。
LONDON TIMES、Page Three、THE BROOKS、THE STANDARDSはTHE SHAMROCKと共に83年新宿LOFTで行われたMODS MAYDAY ‘83にも参加、この時期の人気グループたちが顔を揃えた。
『HERE TODAY』
1983年、新宿LOFTで行われた3回目のMODS MAYDAYに合わせて新しいモッジン「HERE TODAY」がスタートする、これは、The Jamのファンクラブでニュース・ペイパーやファンジン「MODERN WORLD」の発行を手がけていた渡部美菜子とMODS MAYDAYのスタッフが中心になり作ったもので、その1号は83年のMODS MAYDAYに出演するバンドのインタビューを中心にしたものだった。
この時期東京にもいくつかのMODSバンドが活動をスタート、毎月何日かは彼らが出演しているライヴもあり、バンドを中心に少しずつシーンは広がり始め、そのライヴやバンドたちの情報を伝えるメディアがMODSシーンに必要になってきたのだ、ぼくらはもっともっとこのシーンが大きくなっていく事を確信していたし、このシーンはそこに集まるMODSによってしか作れない事もわかっていたから。それに、まだまだこの街ではMODSという言葉すら殆ど認知されてはいなかった、たまにマス・メディアに取り上げられるMODSカルチャーやシーンは数年前と何も変っていないデタラメな情報だけだった、「HERE TODAY」のような世界中のMODSシーンの現状とMODカルチャーについて本当のことを伝えられるメディアは他にはなかったのだ。
その後RADIATE RECODSが発行者になり90年代に入るまでこのファンジンはMODSシーンの大切なメディアとして機能する。
『RADIATE RECORDS』
READIATE RECORDSはロンドンのI-SPY RECORDSがそうであったようにMODSシーンから生まれたMODSグループを紹介するレーベルとして、84年東京でスタート。ファースト・リリースはPage Three、LONDON TIMES、THE STANDARDS、THE BROOKSの4グループ4曲入り7インチEP「LES ENFANTS TERRIBLES」だった。
その後85年にTHE COLLECTORSの加藤ひさしが参加していたTHE BIKEの4曲入りソノシート「THE SONG FOR MR. DINOSAUR」をリリース、87年にはTHE COLLECTORS、THE HAIR、Page Three、THE STANDARDS、High Style。京都のMODSグループ、MERSEY BEATなど6グループの参加したオムニバス・アルバム「DNACE」、88年にTHE I-SPY、The Maybels、THE HAIR、High Styleが参加した7インチEP「Wh y don't you get smart?」、89年THE I-SPYの12インチ・シングル「MOVE ON UP」を、90年THE HAIRの「THE HAIR SINGS MAXIMUM R&B」をリリース。
RADIATE RECORDSはレコードのリリースだけでなく、毎月のニュース・レター「HIHEEL LIST」や「HERE TODAY」を80年代に発行していた。
『Club Scene』
バンドを中心にそのシーンを作ってきた東京のMODたちにとってクラブは80年代の始めのころはあまり重要ではなかった、まだ東京にもクラブ・カルチャー自体根付いたものではなかったし、84年頃は六本木のニューウェイブ・クラブ、Climaxかツバキ・ハウスのLONDON NITEに行くか、誰かが企画する小さなパーティーでしか踊ることができなかった。Climaxでは何時間も飲みながらTHE SPECIALSかDexys Midnight Runners、THE JAMがかかるのを待ち続け、LONDON NITEも踊るにはMODSにとってはベストな場所ではなかった。
だからこそバンド中心に成長してきたこのシーンにもMODのDJが必要だったのだ、85年のMODS MAYDAYに始めてMODのDJが参加する、この渋谷LIVW INN行われたMODS MAYDAYの会場はReady Steady Goが行われたWembley Studio
を再現したデコレーションがされ、司会が登場しバンドを紹介した、会場のMODたちへはナンバー・カードが配られDJのまわすR&BやSoulでダンスのコンテストが行われ、会場は800人ほどのMODSで溢れていた。この時からMODS NAYDAYではDJがプレイするソウルや R&Bは絶対に必要なものになったのだ。
始めにMODたちが集まっていたクラブは新宿のツバキ・ハウスで毎月行われていた「GANG STAGE」だった。このクラブはそれまでLONDON NITEに集まるMODSを楽しませていたDJ稲葉達哉と藤井悟、松岡徹それに黒田マナブと何人かのモMODSと60’sファンの手で60’S POP clubとして85年にスタート、そこではNEO MODS、2TONE、British Beat、Soul、SKA、R&Bなどの曲がかけられ、会場はスゥインギン・ロンドンなデコレーションがされ当時のロンドンMODSシーンと同時進行、リアル・タイムな情報が溢れていた。このGANG STAGEはツバキ・ハウスが閉まるまで毎月続けられ、その後Pピカソ、ミロス・ガレージ、Web、音と場所を移しながら、その時代の一番リアルなMODSを意識したクラブとして毎月オープンしていた。(現在は休止中である。)
88年にはMODクラブ「FACE」がスタート、MODドレス以外は入場できなかったこのクラブではノーザン・ソウルやR&BがかけられMODがダンスに夢中になっていた。しかしこのクラブは店の事情により半年ほどでクローズしてしまう。
『10th Anniversary』
87年、ロンドンのNEO MODS(Mod Revival)シーンが勢いを失ったころから、日本のMODSシーンは次の世代へと動きはじめる。87年のMODS MAYDAYは80年代始めからワグ・クラブで「GAZ ROCKIN’ BLUES」を続けていたギャズ・メイオールとPOTATO 5をロンドンから招き、MODS MAYDAY’86にも出演したSKA FLAMESやTHE COLLECTORS、THE HAIR、I-SPYが出演。2トーン以降あまりスカに馴染みのなかったMODSシーンにまたSKAのサウンドが戻ってきたのだ。
今までのNEO MODS的ビート・サウンドが主流だったバンド・シーンにも個性をもったグループが登場し始める、現在はGENOに参加しているサトウがシンガーだった当時のTHE HAIRはR&BやブルースのカヴァーをTHE WHOの再来のようなハードなサウンドでプレイ、I-SPYはモータウンやノーザン・ソウルに影響を受けたサウンドを作りだしていた。他にも、87年英リリースのオムニバス「UNICORN 2」にも参加したHigh StyleはTHE TIMESやSQUIRE的なポップ・サウンドで人気があったし、RADIATE RECORDSのオムニバス「Why don't you get smart?」に参加したThe Maybelsはアコースティックなサウンドを持ちもっと広い層にアピールするグループだった。MODSシーンのバンドたちはよりルーツに戻ろうとするグループと新しい時代の動きに乗ったサウンドを作り出そうとするグループと2つに大きく別れ始める。
そして1990年、MODS MAYDAYがスタートして10年目にあたるこの年、MODSシーンは一つの頂点を迎える。80年代後半からシーンに登場した東京スカ・パラダイス・オーケストラ、MUSTANG AKA、I-SPY、シンガーにLuiが参加したTHE HAIR、High Style、Arch Races、大阪のGEARが参加、クラブ・チッタで1500人以上のオーディエンスと何百台ものスクーターを集めオール・ナイトで行われた。
『NEXT LEVEL』
90年代に入って、東京MODSシーンは大きく変化してゆく。シーンの中でもクラブやダンス・ミュージック(R&BやSoul)が今までよりもっともっと重要になってくる、この街のユースカルチャー自体もクラブから新しく産まれ、クラブの数やDJとして活躍する人々が増え始めたそんな時期、いくつかのMODSクラブがスタート。1990年代最も人気のあったMODSクラブ「Whisky a Go Go」も92年にスタート、このクラブはそれまで小さなクラブやスタジオを借りてパーティーを行っていたMODたちが「blues dress」というグループを作り王子の3D Club Birthで定期的にオープン。彼らは60年代に在ったロンドンのクラブ「SCENE CLUB」での選曲を再現する目的で58年から66年までにロンドンで聴くことのできた曲だけをプレイ、3D Club Birthが閉店した後は新宿のWIREで2000年初頭まで毎月オープンしていた。
また、新宿JAMの深夜イベントとして1994年にスタートしたFACING FACTSもJazz、Blues、Rockn'Roll、Soul、SkaといったBlack Music を中心にDJ による独自の感性と暗黙の了解の中でイベントの雰囲気を構築。東京MODSシーンにおいて数々のクラブヒットを生み出す。(このクラブも現在は不定期開催となっている。)
これらクラブイベントは東京MODSシーンがロンドンのNEO MODS(Mod Revival)と同時にスタートし60年代の大いなる遺産を探し求め、80年代この街で探し、そしてつくり続けてきたMODSカルチャーの最終地点でもあるが、60年代を再現し楽しむだけの懐古趣味的なものに留まってしまう危険も持っていた。さらに今までシーンのバンドたちが目指し行ってきた「今の時代のオリジナリティを探す」といった方向とはまるで180度正反対のやりかたでもあった。
この60年代の気分をどれだけ伝えるかがバンドにとっても重要なことになり、それまで人気のあったTHE COLLECTORSやHigh Styleに替わって、ブルースの名曲をThe YardbirdsやTHE WHOの様なハードなダンスナンバーとしてプレイしていたTHE HAIRやバBACK DOOR MEN、 GEARや、サザン・ソウルを得意としていた「THE FAVE RAVES」などルーツ・ミュージックのはっきりとわかるグループたちや、60’sミュージックをカヴァーするグループがシーンの中で人気を集めていた。
しかし、RADIATE RECORDSの革新的な意思を引き継いで、この東京MODSシーンのメインストリームからは外れさらに新しい何かを求めるためのレーベル、LOVIN’ CIRCLEもシーンの片隅で92年スタート、このレーベルはシーンのレイドバックする感覚とは違いMODのアティチュードをこの街の今現在を意識したかたちで90年代のMODミュージックとしてSoul MissionやORIENTAL CROMAGNONの作品をリリース。96年には90年代の「Quadrophenia」的オムニバス作品「LOVE & HATE」をリリース、またBlue Beat Playersの監修するJAPAN SKAコンピ「MO’ DOWN BEAT」をリリースする。